昭和43年7月4日 夜の御理解
4時の御祈念を終わっておりましたら、北野の「ひよし?」さん。「ひよしながよし?」さんが参ってみえましてね。昼の御理解を、色々話させて頂いておりました。今日の清きところも汚きところも、隔てなくお守りあるぞと。わが心に不浄をおかすなというみ教えでございましたが。
▲「桃の花、鯉住む池や薄濁り」というこの解釈を私、させて頂いておりましたら、先生あの、私はその話を頂きますとね、今朝方から、母と二人で大きな鮒をですね、小さいこの(しょうけ?)ですけれども、もうそれこそ鯉のように大きな鮒を5、6匹釣らせて頂いたお夢を頂いたとこういうわけです。
そして同時にいうことは、本当にこの私共のようなものでも、このお救いが頂けれると、助けて頂けれるということ。これはもう心と形の上におきましても、そりゃ助けて頂けれるということが、金光様のご信心の素晴らしいこと。まぁその辺がこの頃分かりかけてきたというてから、話すんですよね。
私はあの、金光様のご信心のその素晴らしいところは、そうですね、もう本当にもう自分のような汚い、自分のように浅ましいと。というように、それ汚い自分というか、汚い過去を持っておる自分とでもいうか、そういうようなものがですね、むしろそういうものの上、ところにその鯉が住むという。
薄濁りになっておる自分の心の(なかりで、すりゃ?)ではなくて、そういうものの中にこそ、かえってこの鯉が住むのだと。いわゆる親鸞の、善人ですら助かるのだから、悪人において(おやんと?)ね、悪人だったらなおさら助かるのだと。そこにその、お道でいう天地金乃神様の、お神、寛大の神様ということがね、そこに本当に私のようなものでも、まぁ(お道流儀?)でいうなら、私共のような屑の子でも、こうやってお助けが頂けれるということ。
しかもこの、お話を頂いておって、もう自分のごたる過去を持っとるものは、自分のごたる者はとこう、自分という者を卑下しておるのにです、今日のような御理解を頂きましたら、もう心が生き生きとしてくる。
しかも今朝から頂いたその、お夢がですね、今先生から頂きました、川のものは徳とこう仰るが、今こそ「ひよし?」一家。私共親子が、本気で信心させてもろうて、お徳を受けなければならない時だというような風に言ってるんですね。
私もそれ聞きながら、本当に金光様のご信心の素晴らしさ、というものはこの辺にあると思うんですね。清まらなければおかげ頂けん。ね、立派にならなければというのじゃなくて、成る程それが立派になって行くことを目指すことはいよいよ有り難いこと。けれども、その身そのまま助けられるということ、ね。
私は、「桃の花、鯉住む池よ薄濁り」というのは、そういうような意味だとこう思うんですね。そこでそんなら私共がいよいよ、その薄濁りの私共であるということをですね、自覚さえて頂くためにいよいよ自分という者を本気で見極めなければいけないということですね。
見極めれば、見極めるほど自分の、まぁ汚いこと、浅ましいこと。ね、まぁいうならば我情我欲でいっぱいで、心の中が汚く汚れておるというような事。そういうような自分を発見する時に、私はかえってそこからお徳が受けられる。だから、そのどう申しますかね、普通人間的に立派というような人達は、あのなかなか信心いたしません。
なるほど信心でもさせてもらわねばならん人ほど、屑の子が多いですよね。いわゆる、そのために難儀を感じておる。そのために難儀な目にある。そこに神様と、こうおすがりをする。そしていよいよ自分が屑の子であるということが分からせてもらう、そこから屑の子であればあるほどに、お徳が受けられるという信心ですね。
ここに、天地金乃神という神様のこのご性格というかね、それはこのままここに、清きところも汚きところも、へだてなく天地の神の守りあるぞ。わが心に不浄をおかすなとこう仰る、その私共の拝ませてもらう天地の神様という神様は、そういうようなご性格の神様であると同時にね、わが心に不浄をおかすなということにおいてもです、私共の願いが成就しない。
ね、自分達の願いが成就しないということこそ不浄だと。だってここんところには又問題がありますですね。自分達がまぁ、その様々な願いを持っておりますけれども、ここんところでは私は、やはり本当な事はね、神様の願いが私にかけられておる。
ね、例えば末永建郎の上に神様が願いをかけておられる。ね、その願いが成就しないということは、神様へ対して大変なご無礼だということなんですね。
ですから、何処までも、神様が私共にかけてござる願いというものが、成就していくという事が、成就。もしそれが成就しない、自分勝手な道を選ぶところにです、ね不浄の結果に終わる。それが天地の親神様に対すところのご無礼にもなるわけでございます。
ね、ですからそういうような、例えばおかげはです、どうぞ神様あなたが私にかけて下さってある願いが成就いたしますように、というような信心で進んで行けば良いのですけれども、とても自分のことはほんなおかげ頂ききるまい。という風に思うことが又すでに、自分の心をおかす事になる。
ね、自分の心を、自分からまぁおかげを繋索していくという意味ではなくてですね、おかしていく、いわゆるご無礼になっていくということである。ですから、必ず神様が私にかけられておる願いが成就して行く、そのために息子に難儀があるならば、そのための私は成就の、まぁしていくための、まぁ飛び石伝えだと心得させてもろうて、ね、そこんところを頂いて行くということと同時に、もうどのようにいわゆる、我の、屑の子我という自覚というものが出来て来る。
そこにこそ、むしろ徳の頂けれる、鯉が住むようなおかげになる。「桃の花、鯉住む池よ薄濁り」と、まぁこういうような、まぁいうなら難しいですね、ご理解をまだ、信心の(とし?)はもういかない。ならその「ひよし?」さんが頂いて、本当に金光教でいう、天地の親神様という神様は有り難い神様ですね、とこう言えれるというところにです、神様と「ひよし?」さんと私との、私がなら4時もう、3、40分、もう4時半には終わってから、もう14、5分経っておりましたから、私が立っておったらそんな御理解頂けなかったんでしょうね。
けども(と今日?)私が、若先生がおりませんでしたから、私が奉仕しておりましたもんで、そこへ参って来る。そして、「ひよし?」さんが今朝から頂いておるお夢と、それから、私がお取り次ぎさせて頂いたということと、そこにもういよいよ金光様のご信心の有り難さを今日は痛感したと、いうような(おもち?)で今日は有り難いお参りで入らせて頂いたんですけどね。
本当に、まぁどういう意味合いにおいてでも、私共が拝みよる神様が有り難いと言うことと同時に、何処にかこうきっかけを作って下さる。きっかけを作って下さる。まぁ私はそれを本当に思うですね、もうなんともいえんその、神様がちょっとこの救いの綱を投げかけて下さるというか、そのきっかけの素晴らしい、そのタイミングの素晴らしいことに、何時も驚くですけれどもね。
そういう、例えば神様の願いの中に私共があるということ。同時に私共の拝ませて頂いておる神様が、そのように有り難い、素晴らしい寛大な神様であるということ。いやむしろ、そういう自覚に立った者の上にこそ、本当の徳が受けられるということ。
そんなことを今日は昼の、ご理解、御神訓の、この清きところも汚きところも、という御神訓は教えておられると思うですね、どうぞ。
梶原 佳行